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簡素なフェリー
10分のフェリートリップ。

よいよ、今回の旅三ヶ国目のベトナムに出発だ。


朝7時15分、バスを予約した旅行会社(泊まっていたゲストハウスの1階だが)前に行くと、既にバックパッカーが何人も集まっていた。順調な滑り出しだ。


今回の行程は、安心して良さそうだ。バスは少々小型ながらも小綺麗なエアコンバスだし、ベトナム国境までの道も舗装されているらしい。カンボジア入りの時のように旅行会社前で誰も来ずに焦ったり、バスが2回もパンクしたり、国境越えで3時間もかかったり、未舗装路で思いっきりシェイクされたりすることもないだろう。あんなバス旅は、二度と御免だ。

ただ、数日前にシェムリアプ(シェムリアップ)からバンコクに抜けた友人によると、それの比ではない過酷さだったらしい。カンボジア国内で乗ったバスはエアコンが完全に壊れていて車内はサウナ状態。未舗装路で凄まじい埃のために窓も開けられず、おまけに背もたれの外れた補助席に座らされて(!)数時間を耐え忍ばなければならなかったという。そんな望まざるダイエットになりそうな旅路よりは、まだこちらの方がましだったかもしれないが。

バスは少々リクライニングの固定が緩いという難点はあったものの、やはりクラクション連発で豪快に抜かしながら国道を快走し続ける。舗装路も凹凸が少なく、快適だ。


途中、フェリーでメコン川を渡った。
フェリーと言っても、屋根もない車両甲板にブリッジ(操舵室)がついただけの簡素なものだ。

一旦バスは駐車場に入り、しばらく待った後に桟橋に移動する。桟橋もコンクリートではなく、川岸を少し整地しただけだ。
船がバスや乗用車、トラックなどで一杯になると、その隙間にバイクや自転車、そして人を詰め込んで出航した。対岸まで、10分弱のショートトリップだ。
甲板に出ると、風が気持ちいい。長いことバスの狭い空間に閉じこめられていたから、いい気分転換になった。

ところで出航前、待ち合わせの駐車場にバスが停まった途端、物売りが大挙して群がってきた。
窓ガラスを叩いて、パンやジュースやフルーツ、サングラスなんかも差し出してくる。うーん、メシも食ったし、グラサンもあるねんけどなあ・・・。しかし外に出るや取り囲まれ、振りほどくのも大変だ。
頭にパンを山盛り乗せたお姉ちゃんが「Two thousand」と言ってくるので無視すると、すぐ「One thousand!」。最初からそない言わんかい!でもいらんので買わん。

そうこうしているうちに、今度は屋根まで人が鈴なりになったワンボックス車が入ってくると、みんな一斉にそちらへ走っていった。

囲まれている時は大変だったが、見ているとかなり面白い。車やバスが着く度に我先にとダッシュして、車に近いポジションの争奪戦になるのだから。外周に追いやられた人も負けてはいない。必死に手を伸ばして品物をアピールしている。大阪の商売人でも、ここまで熱心ではないだろう。

このすごい物売りも、今はカンボジアならではの光景だという。これもいずれは、普通の商店が建ち並ぶ風景になり、更に国が発展するとコンビニのような味気ない店だけになってしまうのだろう。そして、こういった船旅のひとときさえも、橋が架かれば失われてゆくのだ。

まだ「利便性」などという言葉に毒されていない今のうちに、眼にしっかりと焼き付けておきたいものだ。


車窓には、平原が延々と続き、時々集落をかすめる。家は簡素な高床式が多い。そしてまた平原。たまに牛が草を食べているくらい。何というのどかな風景だろうか。人工物といえば畑くらいしか見えない。もうタイやベトナムでも、ここまで素朴な風景は見られないのかもしれない。


国境にはあっさりと到着。

掘っ立て小屋のようなイミグレに、今度は長蛇の列も出来ていない。出国審査もあっさりと通過。土の道を国境線に向かって歩く。目の前にはベトナムの、実に立派なイミグレのコンクリートビル、そして広々とした舗装道路。
なんという違いだ。国の体力の差が、こんな所にも表れているとは。しかもベトナム側には、タイ国境にいた物乞いや物売りの子供や、屋台さえ姿もない。静かすぎる。

4列シートの立派なバスに乗り換えて走り出すと、やはり、というべきか、驚きはさらに増大した。メインの国道だからか4車線もあり、しかもバイク用の側道も時々あったりする。タイよりも立派な道じゃないか。
車窓には青々とした水田、コンクリートや木造の近代的な集落。そして高圧線、大きな工場、高架道路・・・。

2時間ほど走り、ビルが建ち並んでくると、ホーチミン(サイゴン)だ。
バンコクに匹敵する都会に見える。プノンペンとは大違いだ。埃っぽくない。高層ビルも見えるし、道行く車やバイクは比較にならないくらい綺麗で新しい。夜になっても街は明るく、深夜でも人通りが絶えない。先進国的な匂いのする、快適そうな街だった。


しかし小綺麗なゲストハウスに落ち着いて一息つけば、薄汚れたシェムリアプやプノンペンの街並み。そして明るい人々の顔が妙に懐かしく思い出されてくるのだった。

カンボジア。今度訪れる時には少しでも発展して貧しさから抜け出していてほしいが、あまり豊かになり過ぎてほしくないとも思う。少なくとも、顔から土の匂いが消え、眼の輝きが失われてしまった子供たちを見ることのないように願いたい。
そういう子供にしか会えなくなった時、果たしてカンボジアは「また来たい」と思える場所であり続けているだろうか。

そんなものは所詮、余所者の勝手な感傷に過ぎないのだが。

キャピトル・ゲストハウス
街なかで少しうるさいが、可もなく不可もなく、の「Capitolゲストハウス」。ツインベッド・インサイドシャワーで6ドル
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貨物列車も走っているが・・・
入れ換え作業中の貨物列車が通るのにお構いなし。

がつけば、プノンペンに来てから5日も経つ。


周りのバックパッカーたちに聞いても「何もないよー」という答えしか返ってこず、短い人は例のトゥールスレーン博物館だけ行って2泊だけで出てしまうというそんな町に5日だ。こんなペースで中国雲南省やラオスに行けるのだろうか・・・あと航空券の期限は1ヶ月ちょっとしかないというのに。

ま、最悪の場合は飛行機でバンコクまでワープするか、最終手段として、勿体ないが帰りの航空券を捨てるという選択肢もある(帰りの片道格安券は、バンコクで300ドル以下なもんで)。そうやっているうちに数年経ってしまう人も多いらしいが。


ともあれ、私の場合は、その5日間で十分すぎるほどのものを見たと思う。プノンペンに詳しい旅人、Hさんのお陰であるのだが。


Hさんに連れられ、プノンペンの駅から湖に沿って線路際を散歩してみた。
私はちょっと鉄道ファンでもあるので、こちらの鉄道にも非常に興味があったのだ。


プノンペンの駅はノスタルジックで堂々とした建物だけど、人が誰もおらず、がらんとしている。それもその筈で、ここには1日2本の列車しか発着していないのだという。首都の駅が、だ。
タイのフアラムポーン(又はホアランポーン。バンコク中央駅)は、通勤列車から長距離列車までひっきりなしに発着して賑わっていたというのに。てっきり廃線になった駅だと思ってしまった。

しばらく線路を歩いてみると、1日2本しか走れない訳が分かった。
線路は日本のローカル線よりも遙かに傷んでガタガタだ。カーブもよく見ると曲線になっておらず、継ぎ目の所で変に折れ曲がっている。これでは危なくて、自転車くらいのスピードしか出せまい。脱線しないだけでも不思議だ。
しかしこれでもれっきとした営業線なのだという。

構内の外れで、ディーゼル機関車が入れ換え作業をしていた。
機関車はまともだったが、貨車がひどい。中の荷物が落ちそうなくらい車体の木は隙間だらけで、タンク車に至ってはあちこちに穴があいている(中はいくつかに仕切られているので、穴の開いていない区画は運べるのだが)有様だ。コンテナ車だけが何とか体裁を保っている。日本の綺麗な列車しか見ていない鉄道ファンがこれを見たら泣くな。

車庫には、崩れかけた蒸気機関車と、今は使われていない客車が放置されていた。客車はそんなに古くなく、少々の手直しで使えそうだ。しかし修理する予算もないのだろう。

道路整備が中国の協力で急速に進んでいるので、鉄道は後回しになっているか、見放されているとしか思えない。早う何とかしたれやー!と思う。大量輸送では鉄道に敵う手段は無いだろが。

でも数年前までは、線路に地雷を仕掛けられり、列車強盗も頻発したりで、とても輸送手段として機能できなかったという。ちゃんと走れるようになっただけで喜ぶべきなのかもしれない。機関車の前に砂利を積んだ貨車を連結して、地雷の盾にしたこともあったそうだ。


さて、駅から少し歩くとそこは、某テレビ局「世界の車窓から」でよく見るような風景が広がっていた。

線路のすぐ脇まで家や店が押し寄せ、線路にはおばちゃんたちが座って井戸端会議ならぬ線路上会議の最中だったり、フリチンのガキどもが遊んでいたり、バイクや自転車がひっきりなしに通ったりして、先日行ったスラム街のように、生活のにおいと活気に満ちている。

我々が通ると、やはり外国人は珍しいと見えて、子供たちが「ハロー、ハロー」と好奇心にキラキラした眼で笑いかけてくる。中には「コンニチハ」と呼んでくるのもいて、やっぱり日本人やと分かるんやなー。でもたまには「アンニョンハセヨ」とか「ニイハオ」とか言って欲しい気もするな。
自分が日本にいたなら、やはり日本語で話しかけられると嬉しくもあるので、クメール語の「スースライ」でお返しだ。

家の中でくつろいでいる人が見えたり、ご飯の支度の最中だったり、大人が集まってカード遊びに熱中していたり。運動場では少年たちがバレーボールをしているし、線路横にビリヤード台が置いてあったりもする。
1時間ほど歩いたのだが、全く退屈しなかった。表通りや観光地を歩くだけでは決して見えない、カンボジアの普段の姿を見たような気がした。


どうも観光客の行かないレアな所ばかりの話になってしまったが、更にもう一つ極めつけを。


プノンペン市内に「朝鮮民主主義人民共和国大使館」がある。

一見、鎖国状態にあるかのような印象だが、いくつかの国にはちゃんと大使もいるのだ。
それに実は、先日いたシェムリアプ(シェムリアップ)にも「北朝鮮国営の朝鮮料理店」があったりして、特に韓国人の人気を集めている。
冷麺が旨くて、更にお姉ちゃんの踊りが見ものだそうだ。次回来た時は、是非とも行ってみたいと思う。


なんでこの国とは関係が深いの?日本にも友好のしるしに来てやー。


話の種に行ってみた。ゲストハウスから徒歩30分。中心部から少し外れた場所にそれはあった。

質素な洋館風の、こじんまりとした2階建てだ。残念ながら中には入れなかったが、国旗もちゃんとはためいている。北朝鮮国旗をナマで見たのは初めてで、ちょっと感動ものだ。

塀には写真が何枚か展示してあって、例により金正日の偉大さと、軍の訓練の様子、国民がいかに結束しているか、というようなことが書いてあった。ちなみに空軍の写真に誇らしげに載っていたのは、ロシアではとっくの昔に退役した旧式のミグ21戦闘機。我が自衛隊のF15にすれば、相手にならんと思うのだが・・・。まあ、マスゲームの凄さは認めますがね。

ところで、Hさんの知り合いが、ここで北朝鮮ビザを申請しようとしたらしい。ところが「日本人はダメだ!」と追い返されたとのこと。う~ん、物好きはいるものだ。


これで明日、思い残すことなくベトナムのホーチミンに移動できる。

がらんとしたプノンペン駅
がらんとしたプノンペン駅。
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国立博物館
国立博物館は、煉瓦色に塗られた姿がひときわ目立つ。しかしどうも展示物ではなく、綺麗な中庭の方が印象深かった。

王宮
王宮にも行ってみた。ガイドブックには「短パン禁止」と書いてあるけど、短パン姿の欧米人もおるやんけ!
感想としては、やはり王宮そのものよりも、一角にある舞台でいろんなクメール舞踊を見れたのが良かった。これはお勧めである。

川縁
王宮からほど近いトンレサップ川は、市民の憩いの場だった。暑い国だけに、川を見るだけで気持ちが和む気がする。ちなみにトンレサップ川の向こうには、少し下流で合流するメコン川も見える。

フルーツ売りのお姉ちゃん
川縁でくつろいでいると、やたらと頭の上に大皿を乗っけたお姉ちゃんが行き交うのに気づいた。皿の上には山盛りのフルーツや蓮の実。そのうち、みんな持っている椅子を置いて、セッティングを始めた。出店だったのだ。
ゲストハウスの窓から
ゲストハウスの窓から見下ろすと、道路は大渋滞。プノンペンでは信号のない交差点も多く、ちゃんとした交通ルールもないのか、しばしばこんな状況になる。まあ、信号があっても、よく停電で消えているのだが。

牛車も現役だ
車やバイクが多いが、たまにこんな牛車も悠々と通っている。壺のような陶器を満載していた。

かごの中身は数頭のブタ
何を積んでるのかと思ってよく見たら、なんと生きているブタ。それも5頭くらいは入っていそうだ。おかげでバイクはなかなか進まず、勢いがつくまで人が後押しをしていた。

マーケットにて
ゲストハウス近くにある「Orussey Market」も、品揃え豊富で見ていて飽きない。でも、これにはちょっとびっくりした。

スズキ・ジェベル250XCやないか!
走っているバイクは、ほとんどスーパーカブ系のばかりだが、たまにこんなのも走っている。ホンマにちゃんと買うたやつか?

絶対盗まれたバイクや・・・
ヤマハのWR250F!しかもモタード仕様!?こんなのがこっちで手に入るわけがない。恐らく日本で盗まれて運ばれてきたんやろう・・・。

セントラル・マーケットにて
セントラル・マーケットでの一コマ。

ムエタイで盛り上がっている
バイクがずらっと並んで、中ではおっちゃんらが歓声を上げていた。覗いてみると、みんなテレビのムエタイ中継にかじりついているのだった。この盛り上がりは、恐らく金がかかっているのだろう。
スラム街の子供たち
スラム街で出会った子供たち。

ェムリアプ(シェムリアップ)からバスに揺られること6時間。着いたプノンペンの町は、カンボジアの首都だけあって確かに都会だった。


しかし、隣国タイのバンコクに比べると明らかに違う。
高層ビルも全く建っていないし、地下鉄や高架鉄道はもちろん、網の目のように通っていた市内バスすら走っていない。
メインストリートは舗装されているが、一歩裏路地にはいると未舗装でボコボコだ。ゴミもたくさん落ちていて所々に悪臭も漂い、お世辞にも綺麗な町並みとは言えないだろう。


ところが、そんな発展具合にもかかわらず、プノンペンの人々はバンコクより遙かに元気で活気に溢れている。特に子供たちだ。


夜、屋台に立ち寄ってみた。汁物などが入った鍋が並べられていて、そこから自分で選んでお椀に盛ってもらうという、カンボジアや東南アジアにはよくあるシステムだ。

そこでは、たまたま小学生くらいの少年が一人で店番をしていた。
日本なら、子供が一人で店を見ていることなど有り得ないし、いたとしてもまともな対応はできないで「あ、あのー、ちょっとお母さんが帰ってくるまで待ってください」と言うくらいが関の山だろう。

ところが、だ。そういう子供どころかバイトの高校生や、いっぱしの大人にもこの少年の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい(う~ん、古い表現だ・・・)と思うほどしっかりしていて、しかも気が利く。

一人で配膳をするのはもちろん、私がバッグを地面に置こうとすると、すかさず椅子を出してくれる。食べ終わったら、すぐさま爪楊枝を持ってきてくれる。そして常に客の様子を見ていて、客が何か言う前に行動に出ているじゃないか。

これは、いっぱしの大人でもなかなか出来るもんじゃございませんぜ。接客業の鑑だ。今からホテルマンあたりにスカウトしたら更に成長するんじゃないだろうか。

さすがに英語はほとんど分からないらしいが、「Two thousand」と、値段くらいは何とか言える。
しかも、親の手伝いをさせられているというのに面倒臭そうな顔など全く見せず、笑顔すら見せて働いているのだ。

これは、チップぐらい渡してあげたいところ。お釣りのうち500リエル(13円くらいだが)をあげると、何とも照れくさそうに笑った。


次の日、同宿のHさんに連れられて、町はずれにあるスラム街に行った。そこの知り合いの家に、空き缶やお土産を届けに行くのだという。

途中、昨日の屋台に行くと、昼飯時だけあって一家総出で店を回している。もちろん例の少年も兄弟に混じって動き回っていた。
ちなみに、ここのメシはかなり旨い。特にご飯は、米がいいのか炊き方が絶妙なのか(カンボジア米は、安い上に品質も良く、日本米にも近いと聞く)今のところ、この旅で一番である。しかも一皿500リエルで、儲けはあるのかと思ってしまう。

またチップをあげると、今度は親父さんに嬉しそうに見せていた。何とまあ、自分の小遣いにしてもいいものを、ちゃんと家に納めるのだ。アンタはエラい!


歩くこと1時間、ゴミ処理場の近くに、そのスラム街はあった。

普通なら我々観光客は絶対近づかないし、近づけないところだが、Hさんはもう長いことタイ・カンボジア間を往復する旅を続けていて、プノンペン中心街でゴミ収集をしていたそこの子供から知り合いになったという。

確かに掘っ立て小屋ばかりだが、よく見ると電気やテレビもあるし、自転車やバイクも走っている。スラムという言葉から想像するような貧しい暮らしではない。子供はさすがに泥だらけで真っ黒だが、大人はみんな小綺麗な格好をしている。

その中の一軒にお邪魔して、お茶までご馳走になってしまった。

6人の子供たち(一番上の子は18歳とのこと。下の子はまだ1歳)は、最初は突然やってきた外国人にビビっていた様子だったが、すぐ慣れてきたようだ。下の子にアメをあげたりして遊んでいるうちに、近所の子供たちも集まってきた。アメをあげるとみんな、手を合わせてお礼もする。

みんな決して楽な生活ではないし、働ける子はゴミ収集(空き缶やペットボトルなど。日本と似たような値段で売れるので、物価の安いこの国では結構いい収入になる)に出掛けたりしているというのに、みんないつも笑って眼がキラキラしている。先進国の都会の子供のような澱んだ眼差しは、誰もしていない。タイや韓国でも、こんな子供たちにはあまり出会わなかった気がする。

ここまで連れてきてくれたHさんに感謝だ。ええもん見さしてもらいました。


豊かなのは悪いことではないが、豊かすぎるのもどうなのだろう?子供たちの眼の輝きは、生活の豊かさと反比例しているように思えてならない。

しっかりした少年
これがそのしっかりした少年。表情ももはや子供ではないほど凛々しい。
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延々と遺影が続く
延々と遺影が続く・・・

ンボジアという国を旅していると、何かと考えさせられることが多い。

つい最近まで内戦という戦争が身近にあり、今もなお地雷という後遺症に苦しめられているという現実と、発展途上にありながらも逞しく生きている人々など。日頃、不満ばかり漏らしている人がいたら、一度カンボジアに連れてきてみるといいのでは?少しは大人しくなるかもしれないだろう。


以前、韓国の国境にある板門店(パンムンジョム)に行った時も、自分のいるほんの数メートル先には銃を構えた北朝鮮兵がいて、その場の緊張がひしひしと伝わってきた。今、万が一それぞれの領土にいる誰かが国境線を超えて走り出したら、その途端に銃撃戦が始まるのだという。

北朝鮮兵と、それと向かい合うようにテコンドー姿勢(すぐに銃を取って戦闘態勢に入れるように、腰のあたりで両手を構えている)をとって微動だにしない韓国兵を見ていると、日本がこうでなくて良かったなー、と身にしみて思ったものだった。日本も下手をすれば太平洋戦争の後はアメリカとソ連に分割統治されて、北海道などひょっとしたら「蝦夷民主主義人民共和国」とかいう外国になっていたのかもしれないのだから。

そうなると「北の国から」も「北の共和国から」になっていたのかもしれぬ。「父さん、今日は偉大なる××総書記の誕生日だったわけで・・・」なんて。


プノンペン市内にある「トゥールスレーン刑務所博物館」に行ってみた。
ポル・ポト率いるクメール・ルージュ軍が設置した、政治犯尋問センターの跡だ。

ここには延べ2万人もの政治犯が収容されて、凄まじい拷問の末に処刑されたという。

しかし、その罪というのが要人を襲ったとか大衆を扇動したとかではなく、「病気で寝込んでいたが、栄養たっぷりのスープで元気になったから」とか「排泄物を回収に出さなかったから」とかいう訳の分からない言い掛かりなのだ。映画「キリング・フィールド」にも、両手が汚れていなかったりとか、牛車に乗っていたとかいうだけで頭にビニール袋を巻き付けられて射殺される人たちが描かれていたな。

理不尽な!その人らのどこが政治犯なんかい!?こんなんでいちいち処刑されとったら、そら300万人(ポル・ポト時代における犠牲者の総計で、事故死、病死も含む)も死ぬわな!処刑される側だって、とてもじゃないが死んでも死にきれない。

拷問室に入る。鉄の網がむき出しになったベッドと、鉄棒を曲げた拘束具が残っている。

ベトナム軍が介入してクメール・ルージュを追い出し、プノンペンに入った時、この拷問室の各ベッドには14人が縛り付けられたまんま死んでいたという。ご丁寧に、その時撮った写真まで大伸ばしにして壁に掛けてある。モノクロなのが幸いだ。カラーなら、恐らく見る人の半分くらいは卒倒しているのではないか。血まみれで、床も血の海だ。「惨殺」とは、まさにこのことを言うのだろう。

そんな写真とベッドと、血の染み込んでいそうな部屋を眺めていると、拷問の絶叫が聞こえてきそうで吐き気がした。

実はここは、それまで高校の校舎だったという。希望に満ちた筈の学舎を、何とも罪深い目的に転用したものだと思う。

校庭には、鉄棒とブランコの支柱が残っていた。
いや、よく見ると横に説明が書いてあって、ブランコなどではなく、後ろ手にしたまま吊り上げる(しかも手首にロープを掛けてですよ!)拷問具だったのだ。想像しただけでも痛い。痛すぎる。でかい水瓶も置いてあって、これは繰り返し頭を浸けるものだ。

あと、独房も保存されていた。主な拷問具が置かれ、壁に拷問の様子を描いた絵が掛けられている部屋もある。
手首をギロチンのようなもので締め付けた上に生爪を剥がしていたり、斜めになった板に頭を下にして貼り付けて顔に水を掛けたり、顔がギリギリ水に浸かるように逆さ吊りにしたり。よくもまあ、これだけ考えたものだ(もともと日本軍がやっていたのも相当あるらしいが)。もっと国のために考えることがあっただろうに。

ムチ打ちも4人がかりだ。SM好きの人がこの部屋を見たら、ほかの趣味に転向するかもしれない。

しかし何よりも圧巻だったのは、処刑される直前の人々を証明写真のように正面から撮った写真がパネルに並べられている部屋だった。

十枚や百枚どころではない。さすがに2万枚はないが、数千枚はある。みんな無表情で虚ろにレンズを見ている。老若男女、赤ん坊を抱えた母親や、どう見ても幼稚園くらいにしか見えない男の子や女の子もいる。
こんな子が何をしたって言うんかい?どんな反政府活動をしたのだ!?と、ポル・ポトを三角木馬に座らせてろうそくを垂らしながら小一時間、いや、丸一日でも問い詰めてやりたい。
こんな納得のいかない処刑を目の前にして、この人たちは何を考えていたのだろうか。

ポル・ポトの写真もあった。嫌いなタレントのポスターの眼のところに画鋲を打つように、眼の所は×印に傷つけられ、「RED DEMON」と赤い字で殴り書きがしてあった。たぶんこの顔写真が「ウサマ・ビン・ラディン氏」のようにTシャツにされることはないだろう。

最後に記録映画を観て、ここを出た。


今までいろんな戦争の跡や博物館を観てきたが、どれもつまらないものはなかった。悲惨さだけでなく、いくつか観るうちに、戦争がどんなふうに今のこの国を作っていったのかが何となく分かるような気がするからだ。

日本は皮肉にも戦争で発展した。そう発言しても許していただけるだろう。太平洋戦争で国は焦土と化したが、新幹線開発を始め高度経済成長の先頭を引っ張ったのはその兵器開発で育て上げられた技術者たちだったし、産業は海外の戦争の度に湧き、成長を遂げたのだった。

しかしカンボジアは、内戦が20年以上の長きに及んだだけではない。クメール・ルージュ支配時代には国の将来を担うべき知識人や技術者といった人材を根こそぎ虐殺や追放で失い、おまけに農業以外の全ての活動、まともな教育まで禁止していたのだ。これら全ての影響が、内戦終結から15年を経ても思うように発展できないでいるこの国の現状に色濃く表れているのを感じずにはいられない。

そして、植民地にされず大きな戦争も起こらず、今や先進国の仲間入りをしようとしている隣国タイ。50年以上も反目し合っている韓国と北朝鮮。そしてこの後に行くであろうベトナムにも思いを巡らす。

いろんな国を渡り歩いてみると、考えることは更に多くなる。まあ、まだ四カ国に過ぎないので、全くもってエラそうなことは言えんのだが。

拷問部屋
このベッドで拷問が行われたのだ。
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今日の過積載ナンバー1
今日の過積載ナンバー1。

週間いたシェムリアプ(シェムリアップ)に別れを告げ、朝8時、カンボジアの首都プノンペン行きのバスに乗り込んだ。


さて、プノンペンまではまた6時間の大移動だ。

バンコクからシェムリアプまではトラブル続きの上に、カンボジア内の未舗装路でバスは大揺れ、おまけに深夜着という二度と経験したくない旅路だった。

今回は最近舗装された道のおかげで、凸凹ダート道だった以前とは比較にならないほど快適になったらしいが、それも分かったものではない。下手な舗装路はフラットなダート道よりタチが悪い。おまけにまたパンクなどされては、またもや疲労困憊して宿を探す羽目になる。

完全にトラウマになってしまっていた。川を下る高速船で行く手段もあったが、こちらは料金22ドル。ちなみにバスはたったの3ドル。約2千円差か・・・というわけで、またバスで揺られてゆくことにした。


乗ったのは4列シートの大型観光バス。
しかしバックパッカーは他に2人しかおらず、残りは地元の人たちだ。大丈夫か!?しかしツーリスト専用バスのような、バカ高いレストランなどに寄られる心配はなさそうだ。

発車すると、いきなり飛ばす飛ばす。時速90キロ前後で、オートバイや乗用車を蹴散らすかのように突っ走る。
私の席は幸か不幸か、運転席のすぐ後ろなのだ。前の景色が見えて楽しいのだが、たまに対向車がすぐ前まで接近してきて冷や汗をかかされる。

シェムリアプまでもそうだったが、カンボジアの車はやたらとクラクションを鳴らしまくるのだ。ちなみに運転の荒さはタイと同様だ。そして前方に遅い車やバイクを発見すると、追いつく遙か前からクラクションを連発するのだから。

日本なら黙ってそのまま追い越すか、車線が埋まっていたらだいぶ近づいてパッシングという手段をとるのだが、こちらは「どけどけ~!」と言わんばかりに鳴らす。しかし鳴らされた側もまず減速したりして道を譲ろうとはしない。あくまで自分のペースを守り続ける。するとこちらはやがてゆっくりと追い越しにかかる。完全に抜き去るまではクラクションを止めない。

たまに前から対向車が迫っていたり、前のよく見えないブラインドコーナーだったりするが、ほとんどお構いなし。恐らく、あくまで相手がブレーキ踏んでくれるか路肩に逃げてくれるかを前提に運転しているのだろう。見事な信頼関係?だ。実際、対向バイクが迫っているのに抜きにかかり、相手が慌てて路肩に逃げるシーンも多々あった。

まあ、ここのバイク乗りには予想済みなんだろうが、ライダーの私としては信じられん。日本で似たようなことは何度もされたが、その度に怒り心頭で、追いかけていってその車のフロントガラスに石でも投げつけてやろうかと思っている。おっと、危ない危ない。せめて卵にしておこう。

地平線まで見えそうな田園地帯を駆け抜ける。

時たま集落や町を通るが、その時はさすがに減速する。すると、生活の様子がよく見えてなかなか楽しい。牛は平気で前を横断するし、道端には頭に荷物を乗せた女の人が行き交う。僧侶も多い。カンボジアの原風景と言うものかもしれない。乗り合いトラックには満載の荷物に鈴なりの乗客。あれもいっぺん乗ってみたいものだ。疲れるし、埃だらけになるが。

雨期のことも考えてだろう。小さな集落の家はほとんど木造の高床式住宅になっている。たまに藁葺きのような家もある。そしてその中では蛍光灯が灯っていたり、テレビがついていたりするのだ。一見するとバラックにも見えてしまう家だが、貧相な生活には見えない。

聞くところによると、カンボジアでは家を造る資材がかなり不足してるらしい。そのため、家の造りは簡素にならざるを得ないのだそうだ。


ところで、道は極めて良い。凸凹など、いつまで経っても現れない。
車の量が多くなってくると程なくプノンペンだ。


バンコクよりは規模が小さく見えるが、さすが大都会。車の量もハンパではない。そしてやはり交通ルールの無法地帯と化しているようだ。信号もあまり機能しておらず、車とバイクが縫うようにすれ違っている。

ともあれ、ほぼ予定通りバスターミナルに着き、すぐ近くのゲストハウスに落ち着くことが出来た。
力んでいた割には、やや拍子抜けした旅路であった。

ここで、3日くらい過ごすことになろう。

バスターミナル
シェムリ郊外のバスターミナル。各方面行きが出発する。
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手足がなくとも、遊ぶ時は一緒だ
手足がなくとも、同じ遊び仲間だ。

ンボジアのシェムリアプ(シェムリアップ)へ来て、早くも1週間が経とうとしている。


当初の予定では、カンボジア国内だけで1週間の予定だった。アンコールワットやアンコールトムなどの遺跡群を見て、プノンペンに移動。そしてさっさとベトナムのホーチミンに移るつもりだったのだ。

しかしいざ来てみると、シェムリアプは結構面白く、またのんびり出来るところなので予定が延びてしまった。

少し前までは治安も良くなかったらしいが、最近は強盗などの心配もなく、コンビニや1ドルショップなどもできて便利になった。ゲストハウスでもバンコクと同じように、沈没状態の連中を多く見かける。


ところで、惜しいことにカンボジアでは、旅に大切な楽しみがない。

それは食だ。隣国タイのようなバリエーションがない。タイでは毎回辛さにヒーヒー言いながらも、いろんなメニューを食べるのが楽しみだったというのに。

味付けはタイと違って全く辛くない。むしろ醤油などを多く使った日本人好みの味かも知れない。食ってみれば何でも旨いのだ。
それだけに、メニューの少なさは残念に思う。バンコクでは、普通の屋台のメニューでもざっと30種類は下らなかったが、こっちの屋台ときたら焼き飯と焼きそばをメインに10種類もないのではないか。たぶん、タイのようなスパイスに恵まれていないのと、とれる野菜の種類が少ないということもあるのだろう。

タイのトムヤムクンやグリーンカレーなど、国の名前を聞いただけで頭に浮かぶような名物料理も、ここカンボジアにはない。


カンボジアと聞いたなら、何を思い浮かべるだろうか。

まずアンコール遺跡群。それはいい。でもその後に続くのは恐らく、内戦、ポル・ポト、地雷、大虐殺・・・そこにあるのは暗いイメージばかりに違いない。
そう、カンボジアは名物というものが、長い戦争とポル・ポトによる極端な政策のせいでことごとく死に絶えかけているのだ。それなのに、残って欲しくない物が名物になりつつある。


シェムリアプの町はずれにある「クメール伝統織物研究所」なる所に行ってみた。

ここで作っているのは、シルクを使った絣の織物だ。
手織りの上に天然色素で着色されていて、柄と独特な艶が実に美しい。いろんな形の完成品も売っている。ただしえらい手間をかけて作っているだけあって、結構高かったりする。畳1畳ぐらいの生地で、1000ドル前後。
う~ん、しょうがないんかなあ・・・タイシルクは安かったぞ。まあ、あちらは機械織りと合成色素のプリント柄だが。

伝統と言っても、残っている一番古い絣の織物が百年前くらいのものだから、それほどの深い歴史は持っていないらしい。
しかしせっかく受け継がれてきた技術も、農業以外の生産活動を一切禁止したポル・ポト時代には完全に否定され、途絶えてしまうところだった。それではもったいないということで、この織物に惚れ込んだ日本の友禅職人のおっちゃん(当時はまだお兄ちゃんだった)がNGOを立ち上げ、まだ腕に覚えのあったおばちゃんやおばあちゃんたちをかき集めてこの研究所を立ち上げたそうだ。

今では500人くらいの女の人が技術の伝承と織物産業復興を目指して、織機を使ったり柄を糸につけたりといった作業をこなしている。原材料も徐々に自給できるようになったとのこと。
子供を連れてきてもいいらしく、母親が作業している横で子供たちが遊んでいたりもする。これなら働きやすいに違いない。

一番古い端切れを見せてもらった。それに比べたら、今作っている物はまだまだ追いついていないという。確かに織りも荒く、色も薄い。でもいつか、クメール織物なるものがカンボジアに根付くことを願いたい。
余談ながら、ここの店で働いている現地人のお姉ちゃんには感心した。接客態度がなっている!東南アジアに来て「接客態度」という言葉と無縁になっていた(ガムを噛みながら、鼻歌歌いながら、私語しながら接客、なんてことは日常茶飯事)だけに。


その後、また近くにある「地雷博物館」にも行ってみた。
ここは、今はボランティアで地雷撤去に携わっている元兵士が個人で設立した所で、カンボジアの忌まわしき名物、地雷や、内戦で使われたいろんな兵器を展示している。

単に展示してあるだけなら「ふ~ん、すごいな」で終わってしまうところだが、この元兵士の館主が実際に戦いでこれを使って敵を倒し、またこれの罠をかいくぐって生き延びてきた様子が、再現した絵と共に事細かく書かれていたりして、思わず絶句してしまう。若い子供の兵士が銃の手入れをしていて自分の頭を撃ち抜いてしまったことや、身体に爆弾を巻き付けた仲間が投降するふりをして目の前で敵もろとも自爆したことなど。

地雷原を再現した場所もある。確かによく見ないと全然分からん・・・。そして内戦が終わっても今なお残った地雷で人々が足や手をもがれ、死んでいる現実を写真や絵などで教えてくれる。
そこいらの展示館のような、金だけ掛けたような展示は一切無く、実際に戦争に加わった一人の人間のナマの声が伝わってくるようだ。

残念ながらその館主とは会えなかったのだが、館主と共にここで暮らしている子供たちがいた。
みんな近くの集落の子と一緒にバレーボールなどして遊んでいるのだが、よく見ると両腕の肘から先がなかったり、片腕や片足がなかったりする。それでも上手くトスを回して、たまには転びながらもケラケラ笑っていた。爆発で手足を失い、一緒にいた家族や友達も身体を四散させて死んだだろうに。


早くこの国に名物が復活し、余計な名物は一日も早く消え去ってほしいと心より願う。

赤ちゃんをハンモックに乗せて、母親は働く
赤ちゃんをハンモックに乗せて、母親は織機に向かっている。
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廃品回収で働く子供
廃品回収で働く子供。逞しく生きている。

学校帰り
その直後、下校風景に出会った。学校に通えるのは、裕福な家庭の子だけなのか。

市場はどこでも活気あり
どこの国でも、市場は活気がある。
ガイドで小遣い稼ぎをする少年たち
まあ努力は買おう。

ンボジアのシェムリアプ(シェムリアップ)では、日本人も多く泊まっているゲストハウスを拠点に、アンコール遺跡群をまわった。

アンコールワットを筆頭に、十数キロの範囲にアンコールトムなどの遺跡が散在している。世界遺産だけあって、規模も途轍もなく大きいようだ。今では残留地雷の危険もほぼ無くなり、安心して遺跡巡りが出来るようになったのだった。


しかしながら、まずびっくりしたのは入場料金の高さだ。

日本の寺院の拝観料程度に思っていてはいけない。各遺跡ごとに払うのではなく、遺跡群に通じる道路に高速道の料金所みたいなのがあって、そこで各遺跡共通の入場券を買うことになるのだが、1日券が20ドル、3日券40ドル、1週間券60ドルといった具合である。おいおい、どこぞの遊園地やスキー場とちゃうねんぞ!

まあ修復費用が馬鹿にならないのは分かっているが、1食1ドル以下で食えるこっちの物価からすれば信じられない値段設定だ。もっとも、カンボジア人には無料開放されているので、その辺は良心的と言っていい。当たり前のことではあるが。

結局、見るのにそれなりの時間が必要らしいので3日券を買い、3日間、トゥクトゥク(タイで見かける3輪タクシーではなく、ここではバイクが人力車みたいなのを牽引している)をほかの旅人と一緒にチャーターしたり、レンタサイクルでまわったりした。とりあえず有名な所は全部行けたのではないか。日没を近くの丘から眺めたり、アンコールワットの後ろから昇る朝日を拝んだりもした。


やはり、約1000年前後も前に完成した石の建造物が、ここまで残っているのは驚きだ。遺跡によっては屋根が完全に崩れて石が山積みになっていたり、大木の根っこが建物を包み込むようにして突き抜けていたりするが、それが現在までの途方もない年月を突きつけてくる。また、銃弾や爆弾で破壊された跡もあったりして、長かった内戦時代も示している。

そして、遺跡は信仰の対象なので僧侶の姿が多く、よく観光客と話していたりする。英語や日本語がかなり堪能な若い僧侶(十代半ばくらい)が多いのも驚いた。訊くと、寺院で勉強しているが、こうして観光客と話すことによって会話力を磨いているそうなのだ。うーん、頭が下がる。

さて、二番目にびっくりしたのは観光客の多さ。おるわおるわ。アンコールワットなど有名な遺跡の午後になると、これは休日のユニバーサルスタジオジャパンに匹敵する混み具合ではないか。現地人アメリカ人フランス人ドイツ人中国人韓国人日本人、団体ツアーにバックパッカー、いろんな言葉が飛び交う中を縫うように見学しなければならなかった。

世界遺産指定は、諸刃の剣だと思う。これだけ客が増えれば地域に金は落ちるだろうが、当然ながら遺跡の損傷は進むし、ゴミも増える。けしからんことに、ポイ捨てや落書きも見かける。観光客のモラルが向上しない限り、マイナス面の方が多いのではないかとも思う。

そして、どこの遺跡でも執拗にまとわりついてくるのが物売りや物乞いの子供だ。遺跡前の駐車場に着くと、すぐさま小学生になるかならないかの子供たちが手を差し出してきたり、絵葉書や本を持って「イチドル、イチドル」「カッテ、クダサイ」などと片言の日本語を喋ってくる。そして駐車場にずらっと並んだ屋台や売店からは、おばちゃんが「オノミモノ、イカガデスカ?」「オミヤゲ、カッテ」などと声をかけてくる。なんで日本人やと分かるのだ!?と訊きたくもなる。

飲み物や食事の値段は、街中の倍くらいもする。と言っても缶コーラ2000リエル(約52円)、焼き飯4000リエル程度なのだが。

また、建物の頂上に登ると、見たところ中学生ぐらいの子供が何人かいて「Where are you from?」と聞いてくる。「Japan」と答えると、建物の案内を片言日本語混じりの英語でやってくれることもあった。そしてひとしきり説明が終わったら「チッププリーズ」。う~ん、ええ小遣い稼ぎやな・・・。別にやらなくてもいいんだろうが、そこまで英語や日本語、はてはここの歴史まで勉強したことに敬意を表して1人1000リエルあげよう。すると「Do you have japanese coin?」残念ながら日本円は持っていない。矢継ぎ早に「Japanese candy?」「Japanese pen?」そないに日本の物が欲しいんかい!?

おまけにトイレに行こうとすると、門番の子供がいて、1000リエルよこせと言う。26円か。タイでは1バーツ(3円)やったのに・・・ムカついたので、ケツを叩きながら「Emergency toilet!」と叫んで無理矢理入り、走って出て行ってやった。


このように、「アンコール遺跡テーマパーク」とでも言いたくなるような俗化した一面もあったのだ。


ただ、考えてみるとこれも「カンボジア人の逞しさ」かもしれない。

カンボジアは、長い内戦の痛手からやっと立ち直りかけている状態だ。日本は太平洋戦争からの復興は早かったが、戦後しばらくは子供たちが進駐軍兵に向かって同じように「ギブミー、プリーズ。ギブミー」とやっていたではないか。大人も子供も、生きるために何でも売って、少々汚い仕事もやって、英語も勉強して必死にお金を稼いだはずだ。

それに高度成長の時代になって新幹線が走り始めた時も、その駅の裏にはバラックが建ち並んでいたりして、まだ生活の格差も大きかった。ピカピカの服とランドセルで学校に通う子供もいれば、学校にあまり行かずに働いている子供もいたのだ。
こちらでも、物売りの子供の横に、携帯電話で喋っている子供がいる。

日本の歩んできた道を、ちょっと遅れて追っているだけなのかもしれない。


そう考えると、もうちょっとお金出してやっても良かったかなー。などと思うのだった。ただ、あんまりそうすると「日本人は言い値を払う金持ちだから、もっとふっかけてやれ」と舐められもするな・・・難しい問題だ。

人だらけ・・・
中国の旧正月と重なったせいで、どこも人だらけ。おまけに中国語ばかり飛び交って、ここは中国なのかと錯覚してしまう。
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